昼下がり 新潟駅から東京駅まで、無事に上り線を走り終えた上越は、多くの人が行き交う東京駅構内をひとり歩いていた。 地元とは違って酔いそうになるくらいの人の多さは、ただ歩いているだけにも関わらず気力が盛大に削がれていくようだった。高速鉄道として、もう何年もこの駅には通っているのに、これだけはいつまで経っても慣れやしない。 これから東京駅にある事務所に戻って、資料をまとめる予定だった。 丁度昼下がりの、会社員は休憩を終えて午後の業務を始める忙しい時間帯だ。他の高速鉄道のみんなも現場に出向いているはずだった。 事務所に誰もいなければ、のんびりと紅茶でも飲みながら資料を作っていても誰も文句は言わないだろう。せいぜい気楽に作ることにしよう。 そんなことを考えながら、勝手知ったる迷路のような構内を歩いていると、目の前で東北が職員数人を前にして話し込んでいるのが目に入った。 通りすがれば何を話しているのかわかるくらいの声の大きさは、何かの指示をしているように聞こえた。手には何かに資料らしき紙の束。最初から聞いていたわけではないから、どんな内容かまではわからないけれど。 「お疲れ」 通りすがりに、それだけ声を掛ける。 東北は一瞬顔を上げて、「ああ」と返事をしただけですぐに再度資料に目を戻してしまった。 そのわずかな動作を横目で見やった上越は、ふと違和感を覚えた。 なんてことはない、いつも通りの業務をこなしている東北は、傍目には得に何も変わらないように見えたけれど、多分いつも傍にいて東北を見ている者にしかわからない、かすかな何か。 ああ、なんだ。 疲れてるんだ。 仕事に誇りを持って普段から毅然とした態度を崩さない東北は、その感情もおもてに表れにくい。 だから目の前にいる職員達には、何も感じ取れないんだろう。 この場にいた人達でそれをわかったのは、多分僕ひとりだけだ。 上越はなんだか少しだけ誇らしげに思って、唇の端を薄く持ち上げた。 そして執務室に向かっていた歩を右にそらして、旅行者の多く集まる土産物ショップへと向かった。 「お疲れ」 今日二回目となる同じ言葉を呟いて、上越は執務室に入ってきた東北に目を向けた。 誰もいないからと制服のファスナーは全開、シャツのボタンすらも半分以上はだけたラフな格好をしている上越に対して、東北は襟まできっちりと制服を着こなしていた。まるで着方の見本か何かだ。こんなにいつも気を張っていてストレスは溜まらないのかと、上越はいつも思う。 「一人か?」 上越の正面、備え付けの机のスチール椅子に腰を下ろしながら、東北が言う。 疲れなんか微塵も感じさせない機敏な動きは、例え室内に上越しかいなくても変わらない。今がまだ勤務時間内だからだ。 「うん、僕ひとり」 「そうか」 上越は紙面を机の上に散らして、ペンを机に立ててコツコツと鳴らす。 それきり落ちた沈黙は、それほど嫌なものではなかった。 ただ、ゆったりとした空気が静かに流れた。東北が手にしていたペットボトルのお茶を飲み下す音も、はっきりと聞こえる。 「東北」 飲み終わるのを待って、上越が声を掛ける。 そして何かと無言で目を向けた東北の前に、饅頭をひとつ机の上に置いた。 「……なんだ?」 「お饅頭」 「見ればわかる」 「あげるよ」 主語もなく端的に繰り出される上越の言葉に、東北はわけがわからずかすかに眉を潜めた。 上越が物をくれるなんて珍しい。何かの気まぐれだろうか。あとで見返りとか求められなければいいが。 「さっき食べたくなって買ってきたんだ。僕の余りだけど、よければどうぞ」 なんでいきなり。 怪訝に思いながらも、東北は有り難く受け取っておいた。丁度甘いものが食べたいと思っていたところだった。 「疲れた時には甘いもの、でしょ」 言った上越の言葉に、東北はぴくりと反応して饅頭を包んでいる透明フィルムを剥く手を止めた。 視線を向ければ、何やらとても楽しそうな上越の顔。 「……わかってたのか」 「まぁね」 鼻歌でも歌いだしそうなくらい上機嫌な上越の声に、東北は詰めていた息を短く吐いた。 絶対誰にもわからないと思っていたのに。 まったく、これだから敵わない。 ぺりぺりと半分までフィルムを剥いた饅頭を、ひとくち口に頬張る。 「ところで、俺の好物はチョコレートなんだが」 「だって僕は別にチョコなんか好きじゃないもの」 ぷいと顔を背けた上越に、ああ、こういうところは上越なんだな、と東北は饅頭を頬張りながら心の中だけでかすかに笑った。 当然、顔には出さなかったが。 2010.05.16 |